「意識」読んだ
この本はまさに意識について書かれている。
脳科学や認知科学の実験成果をもとに果たして意識とは何なのか、そもそもそれは存在するのか、存在するとしたらどの様に存在し、どの様に現実の物理世界と関わり合っているのかということに関して一冊でわかりやすく書かれている。
今まで哲学的な「意識とは」といった問題や脳科学、認知科学には全くの門外漢だったのだが「意識」という概念がはらむ矛盾点と、その矛盾点をあぶり出すためのアプローチについて書かれていて非常にわかりやすかった。
また個人的に嬉しかったのは今まで聞いたことがあった独り歩き的な言葉やエピソードについてどのような文脈、問題について語られたものであるかがぼんやりとであるが知ることができ、知識のアップデートができたのが良かった。
以下に素人理解ではあるが感想をつらつらと述べる。
意識が抱えるハードプロブレム
私達は容易に「私の脳」や「私の身体」といった言葉を口にする。
この言葉が暗に示しているのは「私」自身と「脳」や「身体」といったものは別物であるという仮定を私達が敷いていることである。
このような立場は心と身体が別れているという意味で二元論的であるという。
二元論を唱えた有名な哲学者にデカルトがいる。
そして二元論においては心と身体の相互作用において問題を発生させることが多い。
つまり別れている2つはどのような仕組みで作用し合うのかという部分において解決できない問題をはらむことになる。
興奮したときにアドレナリンが出るのはどのような仕組みによるのか?興奮を感じ取る器官が存在するのか?それはどの様に「興奮」といった心の変化をアドレナリンの放出という科学的な反応に変換するのか?
などなど。
デカルトはこの問題に対して2つの実体は松果体という脳内の部分で交わると考えた。
もちろんそんなことはあるはずもない。
このステートメントだけは過去に聞いたことがあり、なぜあれほどまでに論理的なデカルトがいきなりこんなに突拍子もないことを言い出したのかと不思議に思ったのだが背景を捉えればなんのことはない。
彼はどこまでも論理的であっただけだ。
つまり別れた2つの実体が作用し合うには必ず接合点が必要であり、それが松果体につながったのだ。
哲学的ゾンビと意識の力
哲学的ゾンビという言葉を以前に聞いたことがあった。
定義としては「ある人のように振る舞い、ある人のように話し、ある人のように考えるが全く意識を持たない存在」というものだ。
はじめにこの言葉を聞いたときに思ったことは「だから何だ」であった。
なにかの思考実験であることはわかったが、ただのトンチ以上のなにかには感じられなかった。
しかし哲学的ゾンビは意識の力に対して疑問を投げかける。
つまり、振る舞いとしては意識を持つ主体と全く同じであるゾンビが存在するのであれば、意識の力とは果たして何なのだろうか?ということである。
私達は「意識の力」というものを平気で仮定するが、それが全く意味のなさない概念になってしまう。
これはあくまでも思考実験だが、この本に書かれた様々な実験はまるで意識とは無いものであるかのような結果を示す。
つまり意識とは行為に伴って生じるある種錯覚のようなものだということだ。
おわり
初めて読むタイプの本だったが、哲学的なワードについての疑問がいくらか解きほぐされて初心者向けのいい本だった。
以上に挙げた言葉に聞き覚えがある人達は読んでも損は無いと思う。